昨日は、親は家族の要なので、親が自分の心を大事にすることは、結局家族を守ることになると書きました。
「自分の心を大事にする」ということはとても大切なことなのですが、ともすると「わがまま」と勘違いされます。
虐待している親は、自分の心のままに我が子を虐待しているではないか、とも言われるかもしれません。
ここで「心」について考えてみたいと思います。
上記の虐待の場合は、「心」を大事にしているというよりは、その場の「感情」のままに行動しているといえます。
ギノット先生が紹介している事例をもとにこの「感情」と「心」の違いについて考えてみたいと思います。
子供が何かを要求する
↓
母親が消極的な気持を無視して要求にこたえる
↓
いやな気持がうずきだして、それが表に出る ※
↓
誰かが傷つく
↓
家族みんなが嫌な思いをする
この場合、※のいやな気持という部分が感情です。
コントロールできればよいのですが、コントロールせずに表に出してしまうとその後の悲劇につながるわけです。
また、最初の「心」の部分に関してはあくまでも消極的な心であって、積極的に相手を害そうと思っているわけではないという点も重要ですね。
仏教には「仏性」という言葉があります。
神仏が創られた人間には、神仏からわかれた神仏の性質が備わっているという教えです。
「心」の問題を取り上げる場合には、この「仏性」を核に考えるとよいと思います。
「仏性」があれば自分にも他人にも「仏性」を見つけることができますから、自分の消極的な心にふたをしてしまうことは、仏性を汚すことになりますね。
消極的な心は心として認めてあげてよいのです。
そして、その時点では子供に正直に伝えることが大事かなと思います。
そして、それを改善したいのであれば、「なぜ消極的なのか」を考えて原因を探したらそこを解決すればよいですね。
・疲れているから→疲れないようにする
・車の運転が苦手だから→経験を積んでいけばいつかは解消できる
また、自分の人生のプライオリティに合わない要求であったならば、正直にそれを伝えればよいと思います。
少しとりとめがなくなりました。
元に戻って、自分の心を大事にすることと「わがまま」の境界線は、
自分と他人に宿っている仏性を信じて心の状態をみること。わがままは、おそらく他人の仏性が見えていないはずです。
自他はこれ別個にあらず一体なり
ですね。